【 丹 後 七 姫 伝 説 】 |
間人皇后は欽明天皇の息女で聖徳太子の生母。6世紀末、中央での蘇我氏と物部氏の勢力争いの戦乱から逃れるためこの地に移り住んだ。何年か後政情が落ち着き都へ帰るとき、世話になった里人達へ感謝の意を込めて自分の名をこの地の名として与えたが里人達はそのまま恐れ多く、その文字「間人」だけをいただき、「ご退座」されたことにちなんでこの地を「たいざ」と呼ぶになったと伝わる。
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細川ガラシャは戦国武将明智光秀の娘として生まれ、信長の家臣であった細川忠興に嫁いだ。しかしかの本能寺の変で、父である光秀が信長を討ったことにより、ガラシャを幽閉したのが弥栄町味土野の地である。彼女はこの地で侍女の一人からキリスト教の話を聞き信仰に救いを求め、後にガラシャの洗礼名を授かったと言う。
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平安時代の六歌仙の一人として百人一首などで知られる小野小町。この地に残る伝説は −
年老いた小町が旅の途中に大宮町五十河住人勘兵衛と出会い彼の家で疲れを瘉した後再び旅にでたが、すぐ病に倒れた。勘兵衛は小町を連れ帰り介抱したがほど亡くなった
− と言うもの。「九重の花の都に住みはせではかなや我は三重にかくるる」という辞世の句が残る。
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源義経の寵愛を一身に受けた美しい白拍子一静御前は網野町に生まれたという。彼女の悲劇は源平の合戦の中、義経にとって敵方である源頼朝の軍に捕らえられたことから始まる。義経と引き離され、しかもこの時すでに宿していた義経の子が男の子であったため、生後まもなく頼朝軍に殺されてしまう…。傷心のうちに生まれ故郷の網野町へ帰った彼女は、20余歳という短い人生をこの地で終えたと言う。
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峰山町に伝わる羽衣天女の物語は − 磯砂山の山麓で七人の美しい天女が水浴びをしていた。その様子をそばで見ていた老夫婦が一人の天女の羽衣をかくしてしまったためその天女は天に帰ることができず、老夫婦の養女になって暮らすことになった。働き者の天女のおかげで老夫婦はすっかり裕福になった。
− 羽衣伝説は全国各地に残るが峰山町に残るこの伝説は日本で最初に正式な文献として登場したものである。
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宇良神社には一雄略天皇の頃(5世紀頃)浦嶋子が船で釣りをしていたが、3月3日晩、一匹の魚も釣れなかった。あきらめて竿をあげるとそこには5色の大きな亀が。その亀を眺めるうちに眠りについた嶋子が目覚めると亀は美しい乙女の姿に変わっていた。そして二人は常世の国(龍宮)へ。その後里心のついた浦島は故郷に帰り、きんじられていた玉手箱を開けてしまう。一浦島伝説としては日本最古の伝承が宇良神社に伝わる。
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安寿と厨子王の父はもと奥州のとある国の領主であったが、平将門の乱に力をかしたとの嫌疑をかけられ筑紫の国に追放された。その父を追って筑紫に向かう途中、人買いにだまされた姉弟は丹後の「山椒大夫」のところに連れてこられる。強欲非道の長者であった山椒大夫に幼い姉弟は昼夜を問わず酷使される。何とか弟だけでも助けようと安寿は山椒大夫の目を盗んで弟の厨子王を逃すがその後厳しく責められ池に身を投げた。厨子王は、後に父の無念をはらして岩城家を再興。目を病み、視力を失った母を佐渡で救い、大夫親子を討ち果たしたと伝わる。
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